自分は1年間の留学という形でアイルランドに行っていたわけですが、もちろんそれまでは日本に住んでいた訳で、そして今も日本に帰ってきているわけなのです。一時的にアイルランドっていう場所にいただけであると。
で、さらに留学先の大学の話をすると、あちらにもサークル的なものはあって、スポーツをするところとか、音楽をやるところとか、もしくは日本語(人)に興味がある人が集まるところとかがあって、そういうところにアイルランドのみならず世界中から人がやってきて数ヶ月から数年を過ごしてどこかに帰っていくわけです。自分もそうでしたけど。
で、もちろんこういうのは留学だけの話ではなくて、早稲田大学のサークル活動も然り、そして大学というシステム自体も然りな訳です。
で、こういうのって面白いなって。
自分はそもそも大学4年で学べるものなんて大した事ない。だとか、1年間の極短い間に得る交友関係なんてその後も続くとは思えない。とか思っていたことがあって、それは、人間がある場所に継続的に入れ替わるっていうシステムの上で、感動とか出会いとか経験の”体験”をしているだけなんじゃないかなって思ってたのです。そんなの馴れ合いじゃねえか!みたいな。
でも、なんか最近はそんなんでもいいんじゃないかなて思うようになってきたのです。
前に誰かが言っていた事なのだけど、「大学でいることで一番重要なのは4年間の勉強ではなくて、その大学が蓄積してきた歴史を4年間で得ることだ。」みたいな。じゃあ新しい大学はどうなんだよ!みたいなこともあるので完全に支持してるわけではないけど、それもそうかなって。だから、実際にその場に所属するのが数日、数ヶ月、数年であっても、短いからダメってことはないし、そこから得るものは何かしらあるはずなのかもなって思ったのでした。
あはは!あはは!みんなに会えてよかった!あははは\(-o-)/的な? |
そういう意味でも、旅行と滞在(居住)って微妙だよなって。前に記事にしたけど。
あと、もう一つ関係のあるようなないような話ですが、よく「世界の共通言語は笑顔だ!いぇい!」みたいな事を言う人がいるんですが、それを聞くたびに「ちげぇよ。」って思ってもいたんですよ。やっぱり言語(=英語)が共通言語だと。笑顔とか音楽を持ち出すのは逃げだと。
でも、コレに関してもそうでもないのかもって思うようになってきたのです。
なんでかというと、日本人同士で日本語を介したコミュニケーションを取れる間柄だとしても、それは100%の理解なのか?っていうこと。もちろん共通の言語があるほうがコミュニケートできる確立はあがると思いますが、言語が違うからこそ必死で使うボディランゲージとか、表情とか声のトーンとか、そういうもので補うもしくは上回ることもなくはないのかもって思ったんです。
生きていれば絶対に移動するわけで、出会いも別れもあるわけで、それはどうしようもないわけで。そういう意味で、人間はみなトラベラーなのだ!みたいな(笑)
なんか変な記事になった気がする。変なの。
0 件のコメント
コメントを投稿