ついさっき、村上春樹氏がスペインの
カタルーニャ国際賞の授賞式で行ったスピーチの原稿を読んでいて、少し思うことがありました。
日本国内のみならず世界中に読者を持つ村上氏ですが、自分はなんとなく好きじゃありませんでした。あの独特な淡い酸っぱい感じが苦手で。でも、高三のときに旅行で行ったエディンバラのタワレコにHaruki Murakamiコーナーがあって、結構な量の英訳本が平積みにされてるのを見たりして、あぁこの人はもしかしたら凄いのかもしれない、なんて思ったりもしていたのでした。
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僕が村上でーす\(-c-)/ |
で、話を戻してスピーチのことですが、さすがに村上氏だけあってすばらしい文章。言葉の選び方とか起承転結とかは言うまでもなく、冷静でありつつ強く訴えかけてくるような力強い文章。
個人的にですが、どことなく糸井重里さんの文章みたいだなって思いましたねぇ。分かりやすく落ち着いているんだけども、力強い。これもある種のコピーですもんね。気づかないうちにその気にさせられちゃいそうでちょっと怖い・・・。だからこそ文章って面白いとも思うんですが。
あ、でもこういうところが文学好きの人に村上春樹が毛嫌いされてる理由なのかも。読んでるとなんかほっとして落ち着いてって、これは確かに”文学”っぽくはないのかもな。
渡部 直己氏曰く、触れた者はその前と後では人生が全く変わってしまうようなもの。事件のようなもの。それが”文学”であると。村上氏は真逆かもしれないですね。(村上春樹的な)読み物≠文学なんだそうです。
また話がそれました。っていうかもはや何を書くつもりだったのかも忘れてしまいました。
あ、諸行無常の話でした。そうそう。
村上氏はそのスピーチの中で無常という言葉を何回か使っているんですね。
ヤフー辞書によると、無常:この世の中の一切のものは常に生滅流転して、永遠不変のものはないということ。特に、人生のはかないこと。また、そのさま。だそうです。
そこで村上氏が言っていたのは、
どうして(日本人は花見や紅葉狩りに熱心に出かけるの)か?桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。…そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。
ということ。 震災のこととは直接の関係は無いのですが、こういう感性ってやっぱりあるなぁって思いました。今ここに確かにあるコノ物っていうよりも、かつてあった若しくはいつかなくなるであろう何かの方が儚くて美しいように感じるなって。
そして、さらに村上氏が付け加えていたように、この無常観にはもう一つの側面が備わっているんだなっていうこと。それは、
滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きといき続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性
諦めっていうとなんかネガティブに取れますが、それだけではない前向きな意識って言うとこれはすごいんじゃないかと思うわけです。だから日本も捨てたもんじゃないのかもって。
諦めてばっかりじゃダメですね。次へ次へ。そんなことを考えていた今日この頃でした。