ところで、2009年の中欧旅行の一つの目的として挙げていたのがアウシュビッツへの訪問でした。
ナチスによるジェノサイドで知られる
アウシュビッツ強制収容所は、ポーランドのクラクフに近い場所にあります。
その当時どうしてもアウシュビッツを見ておきたくて、知っておきたくて、クラクフに滞在したのでした。クラクフから電車に乗ること約30分。やってきたのはオシフィエンチムという小さな駅。
流石に何人かの観光客はいて、みんな同じ方向を目指していきます。
もちろん行く先はアウシュビッツ。世界遺産指定された区域は現在はポーランド国立の博物館として管理されています。そのため何人かのグループに分かれてツアーガイドに従って敷地内を周る事になりました。
まず見えたのが有名なこの門。
「ARBEIT MACHT FREI」とは「労働が自由をもたらす」という意味だそうです。
この写真では見えないですが、Bが上下逆に付けられていて、ユダヤ人収容者の抵抗の証といわれています。
しかしこの日は晴れ。周りには社会化見学でやってきた子供たちと、綺麗な服に身を包んだ世界中からの観光客。予想していた欝々とした空気は微塵も感じられませんでした。
中に入るとこんな感じ。本当にのどか。
ココで大量虐殺があったとはどうしても思えませんでした。もちろん、ガイドさんは所々で当時の状況を解説してくれるので分かるんだけど、やっぱり俄かには信じられないのでした。
あまりにも殺戮の規模が大きすぎて。
収容されていた人々はこういう風景を毎日見て、ココで暮らして、ココで殺されていったんだろう。と思おうとしても自分にはどうも難しい。
敷地の中にはこういったものも残っていました。
これは当時のまま残されている銃殺刑場。
いくつもの花が供えられていました。
ただ、やはりいまいち実感が湧かない。
もちろん悲しい気持ちというかなんというか、暗い気分にはなるのだけど。
立ち入り禁止の看板も当時のまま。
張り巡らされた鉄条網も、監視台も当時のまま。
ここを行進させられたりもしていたんだろうか?
すぐ後ろでは楽しそうに遊びまわる中学生くらいの少年たちの姿。なんだかどんどん分からなくなるのでした。
絞首台。
敷地の奥のほうにひっそりと佇んでいました。
ガス室。
もう観光名所ですね。
当時の絵と現代の観光客がオーバーラップして不思議な気分になるのでした。
次に訪れたのがビルケナウ収容所。
よく映像や写真でアウシュビッツとして写されるこの門は実は隣接するビルケナウ収容所のモノなのでした。この入り口から何万もの人々が収容されるべく”運搬”されてきたのでしょう。
今では観光客が並んで歩くただの線路脇にしか見えないこの光景も、60年前は全く違って見えたのでしょうか。
収容された人々が暮らしていたバラック。
半分以上は既に破壊され消滅してしまっていたようですが、何棟かは残っていました。
中はこうなっています。
いくつものベッドが並べられていました。
実は、そのどれもが傾いていて、収容者に安眠させないように設計されていたという事です。
毎日家に返ることを夢見たりして、この出入り口を見ていたんでしょうか。
線路の終わり。
イスラエル国旗や花束が添えられていました。
敷地内やツアー中には、イスラエル国旗を持ったグループを幾つか見かけました。
ユダヤの人々にとっては他のどの場所よりも特別な場所なのでしょう。
うーん。もちろん何が起きたかは勉強したし、ガイドの話もちゃんと聞いたし、なにより自分の目で見てきたけど、やっぱり実感が湧かないのでした。
一人の死だと大きく感じられるのに、何万人が死んだと言われると一気に薄くなってしまう。
あまりに規模が大きすぎてとか、観光地化されて暗い雰囲気が薄くなってるとかそういうことももちろんあるけど、なんともいえないモヤモヤが残ったのでした。
あと、このときの旅行2週間で唯一差別を受けたのがこのクラクフの町だったっていうのがなんだかショックでした。どーすればこういうことは無くなるんでしょうか。